家族というものについて

最近、羽鳥慎一のモーニングショーに出ている山口真由さんのオンラインサロンに入って、
色々な人のお話聞いたり学んだりしております。

https://lounge.dmm.com/detail/2839/

その中で最近山口さんが書いた「「普通の家族」にさようなら」という本が面白かったので、
紹介と私自身の感想をオンラインサロン内でも記載しましたが、こちらにも転載しておこうと思います。

LGBT+Qが認知されてきて、かつ、日本の伝統的な価値観にそった幸福な家庭像が少子高齢化と貧富の差の拡大によって崩れてきてる昨今、米国ではどのように家族を捉えているのか、同性婚を認めてきたのか、日本の家族とはどういう歴史的背景を元に成立してきたのか等が、かなりわかりやすく語られています。

家族とはなんなのか?

この疑問に、色々な立場の人がいる中で、答えを探していくほんで、改めて家族の普遍的な価値とは何かを考えさせられました。

夫婦別姓制度の議論もそうですが、価値観が色々と錯綜して対立していく中で、改めて大事な部分、本質的な部分がどこにあるかを考えた形です。

家族とは何か?の答えは人それぞれでは有ります。

結構ここで悩んでしまう若い人をみてきたので、自分なりの回答にはなりますが、乗せておきたいと思います。

以下、オンラインサロンで記載した感想を転載しておきます。

よければ本を読んだ上で、みていただけると嬉しいです。

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面白かったです

時代にそった家族の在り方が色々と紹介されていて、
自分では意識したことがなかったようなケースが紹介されていて、
改めて自分にとっての家族像の捉え直しをしてみようと思えました。

まず、自分の場合、家族の普遍的な価値をどこに置くかですが、
家族とは、「絶対的な愛情を相互に注ぎ、相互に相手を認めてくれる(理解してくれる)関係性」のことを言います。

夫婦であれば、喜び2倍、悲しみ半分みたいな関係性ですね。
また、親子関係で言えば、絶対的親が子供に愛情を注いで、安心、信頼していられる関係性のことでもあります。

これが成り立つのは、大人が経済的、精神的に自立した上で、他者を深く理解して、配慮できる大人にあることが必要です。最初からそういう人同士で結婚してもいいし、結婚や子育てを通じて、そうなれれば、それはそれでいいと思います。

大事なのはそこを目指す家族を形成するものの意思です。

マージョリ・マグワイア・シュルツ氏の「私が子供の人生を引き受ける」と決意して、そう表明することによって親となるというのは、まさにと思いました。

「絶対的な愛情を相互に注ぎ相互に相手を認めてくれる(理解してくれる)関係性」を作るためには、意思は必要不可欠だからです。

人間関係において、絶対的に信頼関係をおけて愛情を注ぎ続けられる人の価値は普遍的に大切なものです。ある意味、生きる上での最大の喜びの一つといい切ってもよいと思います。

これを目指していくプロセスとして、結婚や家族が位置付けられています。

それが、日本で家が抗い難い価値観として根強く残っている根本的な意味合いかなと思います。キリスト教で結婚が神聖なものとみなされてる理由だと思います。

「絶対的な愛情を相互に注ぎ、相互に相手を認めてくれる(理解してくれる)関係性」を手に入れて、安定した社会を形成することが、普遍的に望ましいとされてきているので、新しい人間関係の形や構築について、旧来の価値観との衝突が起きてるのだと思います。

まずこれが自分の中の家族の普遍的な価値になります。

次に、

「絶対的な愛情を相互に注ぎ、相互に相手を認めてくれる(理解してくれる)関係性」の形は何がいいのか?という話について。

究極は、成り立つならなんでもいいと思います。

血縁はそれを強化しやすい理由の一つでしかないと思いますし、
実際血縁関係や側だけ見て家族となっていたとしても、どうしようもない家族はいくらでもあるわけですから。

だらしのない無責任な親や他責の親に育てられるくらいなら、まともな場所に子供を避難させて、血縁関係がなくてもしっかりとした愛情を注げる人が、その子の親になり、1からしっかりとした教育を施したほうがずっとましだと思います。

結婚も家族も法律的なものや、枠組み的なものなんて、それこそ、ジャネット・ハリー教授の言うように契約と特典の集合体と捉えてもいいでしょう。本質的には側だけみていればまさにおっしゃる通りなのですから。

ただし、社会として結婚や家族をどう定義するかは、また別の問題です。
私はどちらかというと一つの目指すべき理想像やロールモデルとしての意味合いが強いのだと思ってます。

誰もが、「絶対的な愛情を相互に注ぎ、相互に相手を認めてくれる(理解してくれる)関係性」を構築できるわけでは、残念ながらありません。

むしろ絶対数は相当少ないと考えても良いと思います。

なので、それぞれの国でそれをどうやって理想的な関係性を形成していくのがいいのかと言う問いかけこそが家族形成の本質なのだと思います。

結婚や家族に、「絶対的な愛情を相互に注ぎ、相互に相手を認めてくれる(理解してくれる)関係性」を手に入れるためのプロセスを見ているからこそ、そこを壊すことに本能的に抗い難い抵抗が生じるのだと思います。

逆に自立して、ジャネット・ハリー教授のように、自分でマネジメントできる人であれば、別にそういった形に拘らずとも、「絶対的な愛情を相互に注ぎ、相互に相手を認めてくれる(理解してくれる)関係性」が手に入れれるのだと思います。

最後に

本質的な部分である「絶対的な愛情を相互に注ぎ相互に相手を認めてくれる(理解してくれる)人」が成り立つのであれば、形は囚われず、同性婚だろうと、試験管ベイビーだろうと、IVGによって生まれる子供であろうと、男のお母さんや女のお父さんがいようと、問題ないという話をしました。

私の知り合いで勝間和代さんがいますけど、彼女のカミングアウトがあっても私は全く問題ないなと思いました。人間関係構築において、真に重要な部分は同性か異性かではないからです。それが成り立つ人、築ける人であれば、どんな形でも、何も問題はないと思います。

ただ、違和感そのものを否定するのは全くもっておかしなことです。
私自身の価値観で言えば、試験管ベイビーも、同性婚もおかしなことだらけです。

しかし、私自身、実際にそういった人に会って、理解して、寄り添って、害がないことが確認できれば、許容する余地も生まれるとは思います。身近にいるわけではないですし、違和感だらけで、わからないので、それぞれの事情をよく聞いた上であれば、理解はできると思います。

それでも、結構時間もかかりますし、苦痛も伴います。
それでも受け入れは時間と共にできる自信はあります。

ただこの違和感を吸収しきれるだけ、社会の人が全員が自立した大人でいられるでしょうか?色々な立場と価値観をもった人が、存在すると必然的に争いや関係性の絶縁などが起こり得ます。

理解できない人、私と違う人は、距離を置くことで楽になろう
関係性構築(他者の理解)は疲れるから諦めよう
自分と同じ価値観(=好き嫌い)の人だけ集まろう

となって、分断が起きて、社会が不安定化していきます。
わざわざ自分の価値観と合わない人と付き合うのは疲れるからです。

これは、「絶対的な愛情を相互に注ぎ相互に相手を認めてくれる(理解してくれる)関係性」を作る上で、非常に状況としては悪いです。

そもそも日常において、そんな争いばかり見ていたら疲れません?
実際、不倫の話ばかりSNSでクローズされて、結婚に理想が見いだせなくなった女性が大量に出てきてる気がします。ここに色々な多様性を認めるべきだろんで、色々な対立を若い子が見たら、何が幸せで、何を目指すべきかわからず不安だけが残る社会になってしまいます。

ただでさえ、若年層は貧困か、少子高齢化で今日より明日をよくする手立てが見出しにくくなってるのに、更なる対立が溢れる社会は、もはやなんでもOKするのが正しい社会という誤解を生み出しかねません。

1から理想の関係性を、相手と諦めずに話し合い行動して作り上げられる人であれば、どんな価値観の人が出てきたとしても問題はないと思います。でもそんな人は超人だと思います。なかなかいません。

それよりかは、誰もが理解できて、目指しやすい形として結婚や家族があり、その形を取ることで、「絶対的な愛情を相互に注ぎ相互に相手を認めてくれる(理解してくれる)関係性」を作れる大人に成ることを目指す方が、社会としては健全です。

結果的にそのプロセスをへることで普遍的な価値に気づき、その大切さや幸福感を実感できることこそが非常に大切だと思います。

大ヒットした鬼滅の刃の映画でも、日本における家族像は出てきました。

鬼が主人公の家族が、主人公を責め立てる悪夢を見せた時に、
「言うはずがないだろうそんなことを、俺の家族が」
「俺の家族を侮辱するな」
と叫びます。

日本においては、献身や尊敬や愛情や安心や信頼と言う関係性を強固に構築できているロールモデルが家族像になります。そういった歴史観ですし、だからこそ、家族というものを壊すこと自体に抵抗があるわけです。

私も、ここには強い抵抗があります。

個人の自由や価値観を認めるべきと言う話は全くもって正論ですが、
そこにある違和感の存在を無視してはならず、誰もが「絶対的な愛情を相互に注ぎ相互に相手を認めてくれる(理解してくれる)関係性」を作り上げるために最も良い形は何かの議論も必要不可欠になるんだと思います。

決して、理解がないままに、安易に存在を認めて、対立を生み出すくらいなら、極論、病気とカテゴライズして、分けて、許容の余地を残した方がまだ社会的には安定すると思います。

理解や許容にはそれをする側にもかなりの負担がかかります。
制度的な差別なんていうのは全部認めてしまってもいいと思います。
点滅みたいな形で部分的にまず認めていって、だんだん制度的にはどっちでもいいよとなっていくでしょう。

ただ、社会の理想的な形の議論は、歴史観も絡みますから、絶対的に避けては通れないと思います。

オーバーゲフェル判決の一文で、「結婚よりも崇高な人間同士の結びつきなど存在しない。なぜなら、結婚は最も高次の愛、忠誠、献身、犠牲、家族を体現するのだから。結婚によって、二人の個人は彼ら自体よりも大きな存在となる」とあります。

私としては、多様性が実際に発生してしまっている社会において、

「最も高次の愛、忠誠、献身、犠牲、家族を体現するための、崇高な人間同士の結びつきの存在とは何か?」

ここの形作りこそが、この家族論の帰結する場所になってくると思います。
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人間同士の結びつきの在り方の一つが、家族になります。
それは、誰にとっても安心し信頼し成長できる土台であることは、
社会の安定のためにはとても大切なことだというのが、私自身の感想ですね。

ありきたりと言われるかもですが、それを手に入れるために人間的に成長するというのは、
とてもとても、大切なことだという風に考えております。